昭和四十七年八月十日 朝の御理解

x御理解 第六十二節 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれ           というておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受           けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一           段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」

 昨日、午後の奉仕の時でした。若先生が原稿のようなのを持ってからひととおり眼をとおししてみてくれとこう言う。
 呼んでみましたら、筑水連合会の会合がございますのに、合楽の信心を語ってくれと、とりわけ未信奉者に対する布教という事については、どういうような行き方でお取次をしておるか。
 年々合楽の場合は信者が育っている。○少、又は青年会というような若いものを育てるという事については、とりわけ皆が心を使っておるにもかかわらず、全然○少やら出来ないところをあるし、又青年会なんか、全然育たないところもあるし、長年の歴史を持った教会でも、全然ないようなところすらもいくらもあると。
 どういうような行き方、あり方をすればああいうふうに段々人が助かっていくかとそういうところに皆さん関心を少し持たれてきた。
 それでその事をテ-マにお話をしてくれというのでございます。それで実は私が行ってお話をしなければならんのですけれども、私が全然外へ出ませんから、結局、若先生がまいります。それをどういう事を話すか、原稿を送ってくれという事になりましたが、大体話す筋書きというようなものを、昨日書いて持ってまいりました。
 読ませて頂いて、成程、若先生だなあと思うた。私が言いたい、私がいつも心の中に念じておる事、そして信じておること、それがもう順序ようその書いてあるのです まあ私なら、こう表現すると言うてちょっと、手直しをさせて頂きました。けれども、これは本当に合楽の信心のいわば、全て、大体は未信者に対するだけれども、これは未信者どころではない。これからいよいよ信心を進めていかなければいけない人達に聞いても、これは素晴らしい原稿が出来たねと言うて、その事について又、いろいろと下がってから親子で共励をした事でございます。
 それで話がかりに「未信者にたいするという事でございますけれども、実は合楽の場合は、未信者に対する布教の手といったものは打っていない、いつもが」という事を話だしに書いております。
 只、しいていうならば、今頃から御本部からパンフレットが二ケ月続いて、一枚いくらかで買わなければならなかった、あれを沢山買わせて頂きました、青年会の方達が思い立って、いわゆる未信者に対するところの布教、これが初めてだった。その御本部から送ってきとるそのパンフレットの中に、青年会の方達がいろいろ工夫して、お金に不自由してる人とか、病気で困っている人とか、又は人間関係で悩んでいる人とか、この世の中でも自分程不幸せな者はあるまいと思うような人とか、とにかく行き詰まってそこに難儀を感じておる人があるならば、合楽にいっぺん出ていらっしゃいといった事が箇条書きに書いてるわけなんです。
 そういうようなチラシのようなものを、それにはさんで、青年会がそれをやり、私は知らなかった。そういう事が出来とる事を、出来てしもうてから持ってきたんです 「ほう、これはしかし、なかなかよい思いつきだね」と言うて申しましたが、それを○少が日曜日を利用して、一日がかりで久留米のデパ-トの前とか、駅前とか、人の沢山おるところでそれを配った。
 未信者に対するまあ布教というなら、しいていうならこの事だけくらいであったろう。それが全然効果がなかったというわけではない。
 それをあれを見て何人かの人がやっらお参りをして来た。あのチラシをもらってからね。ですから、その全然効果がなかったというわけではないけれども、未信者に対する特別の布教といったような、そういう手をひとつも打っていないという事を前置きに書いております。
 合楽が段々おかげを頂いておるのは、真実御神縁を頂いた人が、自分自身が、形の上でもたすかり、心の上でも助かってくる。それがいつの間にか、それが主人であるならば、家内に伝わり、子供に伝わり、兄弟につたわり、親戚に伝わり、そしてその周辺の人達がそれに導かれて助かって行く。
 それがまあこれは期せずしてとか、又はそういう布教の対象といったそんな問題は問題としないで、自然と広がっておるのが、合楽の未信者に対する、未信者が信心を頂くようになり、求信者、いわゆる信心を求めて来るようになるのは、そういうような事からだという事を強調して書いとる。
 同時にここでは第一、これは合楽の特異性だと思うけれども、お導きという事を、師匠とか親先生とかいう言葉を使ってましたから、まああんたが行くとじゃけん、まあ父というくらいにしなさい、だから父の信心を見ておると、そういうふうに思われる。人を導いて人を助けなさいと、いうなら後に人を助けてやれとかいった事はここではあんまり言われない。
 お導きをしなさい、しなさい、もうとにかく、これはお道でもそうですけれども、これは他の宗教なんかではね、一人で十人導くと位が上がる。
 二十人導くと又位が上がるといったように、もう無茶苦茶にその導きさえすればよいように導いて、導く事をたてまえにしとる宗教すらある。
 そんなら金光教だってやはり、お導きという事は大事にされとるけれども、合楽ではお導きという事があまり言われない。
 けれども、自分自身が助かる、自分自身がおかげを受ける。それを見たり聞いたりしておる、例えば主人であるならば、家内がついてくるようになり、子供達もついてくるようになり、それが親戚にも伝わっていく。
 だから、これもひとつの合楽の特異性なんだけれども、ほとんど総代、幹部と中心をなす人達の信心は、家族をあげて信心しておるという事が、特に目立っておるとう事も書いてある。
 未信者に対するところの布教、そんな事は全然考えてないわけです。只、口から口に伝わっていく。只、おかげを受けた人達が同病相憐れむで、そこに難儀な人を導けとは言われんけれども、いっぺん参ってみなさい、おかげを受けますよ。心が助かりたすよと。それを聞き伝えて、未信者の人が信者になっいくというような行き方が大体合楽でも行き方で、来年はいよいよ教団でも記念祭というので全国に本部から、未信者に対するところの講演会があちらこちらで持たれる事になった。
 久留米地区にもそれが持たれる、いわゆる未信者の人に話を聞いてもらおうというのである。それでその選定としてです、そんなら、この筑水地区に於も、未信者に対するところの布教方針といったものを、皆さんが話あい、又は出し合ってそれにあたっていこうというのでありますけれども、まあ、その事で話せという事なのですけれども、合楽の場合は、こんなわけだと言うて、段々合楽の信心に触れていっておる。 はじめて例えば、お参りをして来たといったような場合などに、信心を説かれるといった事はまずない。
 とにかくおかげを頂かれるように、これは私共修行生に対していつも、父が申しますことは、自分が助かっておる実感、又自分が有難いと思うておるその事を伝えてゆけと。これは修行生にでも、私共にでもそういう事を申します。
 病人だから、病気に対するお話、金銭関係の事だから金銭関係のお繰り合わせを頂くような話といったようなものではなくて、それは難儀の様相というか、問題そのものはどのような問題でもよいから、お結界に奉仕をしておる者がその時の自分の実感かく信心しておるとか、かく思うておるとか、かく有難く思うておる。その事を伝えるなら伝えていけというふうに合楽では言われます。
 そしてお願いをしたが最後、変わった事が起きてきたら有難いと心得てと言われるから、ははあ、これはお参りをしてお願いをして、おかげのしるしじゃろうと思われるような、例えばそれが、病人であるならば、例えそれが熱が出たとか、咳が出たというような、変わった事が起きてきたら、もう神様の働きのありよるとじゃから、又出ておいでなさいというような程度でありますと、又事実そうです私は。
 そして段々おかげを受けて信心の有難さが少しわかってくるようになると、お話をする、いわゆる教祖が言われる願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせといったような、ひとつの順序。そういうふうなお取次を私の方ではしておるといったような事が書いてある。
 先日からの御理解を引用してから、お取次をさせて頂いておるのを私共が、神習させてもらう時にです、それは何ともいえん、いうならその参って来た人々に対するところの御理解というものは、もうこれは只事じゃないと思うように素晴らしいという事を書いておる。
 いわゆる大急ぎで傾向する。その大急ぎで傾向するという事を、大急ぎでその人の方へ傾くというようなふうに、父は表現する。
 その傾きの素晴らしい事は取次者として、大いに見習うべきだと、私の事をそういうふうに言っておる。
 これは人間関係のおかげを頂くという事に於もそうなんです。自分の程度がいかに高かっても、自分の言う通り、そうだ、ああだと、しかつめらしゅ言うたところで、説教したところで聞かなかったら仕方がない。
 ですから程度の低い者がおるなら、程度の低い者のところを、ポンと自分が下がっていって、そして、そこから導いていこうというような行き方すりゃ、過程の上にも絶対おかげが受けられる。
 そげなことがいるもんか、そげな事はいらんなんてものじゃない。そういう行き方を合楽ではとらせて頂いておる。
 最近、口を開けば父が言っておることは、和賀心時代を創るということ。神様が何と言うても一番お喜びになるということは、これは父の寝ても覚めてもの思いらしいと書いてある。
 どうぞ皆さん私が話よると私の話と思うて聞いて下さって、いかんですよ。私もそげんならなければならんのです、各々が。
 どういう信心をさせて頂いたら神様がお喜び下さるだろか。どういう信心させて頂いたら御機感に叶うだろうかという事を、これはもう父の場合、寝ても覚めても、その事を考えておるようにしかみえませんと書いてある。
 そして最近、これだと言っておる事が、和賀心時代を創るという事。これは神様の御神願であり、神様の悲しいまでの願いであり、人間氏子がです、真実助かるという事が、天地金乃神様の願いであるならば、その願いに応えて手にでもならせて頂こう足にでもならせて頂こうという、願いがもういよいよ切のようであると言うて、真実の願いを持っている人は、根賀以そのものに照らされて、願いは自然に成就されるというような事を申しておりますと書いております。これも先日の御理解です。
 ですからこれは、若先生が私の信心をいわば語っておるわけですから、そんなら皆さんも、そうだそうだと思いなさろうけれども思うただけでなく、皆さんの信心もそうあらねばいけないのですよ。
 だからそういうふうに聞いて頂かんと、只、若先生が原稿書いたこと、只、私が暗記してから言いよるだけの事になってくるですからね。御理解ですよ。
 その為には、そんなら真の信心、真の信心と言われるけれども、その真の信心とは父が感じとらせて頂いておるものは、神様の御働きそのものを、大切にする事だという事に徹底しておるという事を言っております。
 私共一人ひとりの上に起きてくる様々な問題、その問題はもう、絶対天地の親神様が人間氏子に真実のおかげを頂かせたい願いと言うか、祈りがそこにそのようにして表れておるんだという事を信心体験によって、体験して、そしてそのこと自体をです最近では成り行きを大事にする、御事柄として頂きぬいておるというのが合楽の信心の芯になっておる。
 そういう例えば状態になる時、成程、これが真の信心だなと思われる程しにです、それを実行していく父の心の上に、いわゆる和賀心がいよいよ本格的なもの成程、このような事にまで、このような喜びが感じられるだろうかと思うような喜びを、父の信心の上に見ることが出来ると書いておりますよ。
 例えば普通でいうならば、悲しい事に直面しながらでも、父は私なりにお礼を言わなければと言うて、本当にお礼を言うておる。それを目の当たりはる時です、成程、これが和賀心だなと感ずるというのである。
 自分自身がいよいよその和賀心を完璧なものにしていく事に精進する。これが真の信心でなくて何であろうか。これが真の信心だともう口をすゆくして私共にその事を教えるとこう言っておる。
 そしてこれはもう、学問があろうが、なかろうが、程度が低かろうが高かろうが誰にでもわかるような、和賀心学を作れと最近では言っとる。
 これを世界に広めてゆかなければ、教祖金光大神がこの世に出現されたいわば値打ちがない。天地金乃神様の願いに応えて、この事がいわゆる和賀心時代を創るというのは、合楽が言いだしたとか、合楽の先生が言うとるというのでなくて、これはそのまま、天地金乃神様の願いであるのですから、その願いに応えて私共が、手にならせてもらおう、足にならせてもらおうという、例えばそういうい願い、これをもって合楽では真実の願い、本当の願い、そういう願いが出来るようになったら、願いそのものの光に浴して、その光りが照り返ってきて、お互いの願いというものは、もう自然のうちに成就してくるというふうに言っている。
 最近にはこの和賀心学を極め、和賀心学を作ろう、それは例えば衛生学とか、栄養学ですらがあるくらいだなんだから、和賀心学がある事はひとつも不思議ではない。 しかもそれを世界中に広めるために、人間がこの世に生まれたら、この和賀心学を一辺どおり、それは勉強しなければならない程しに、ひとつの義務ずけるくらいのところまでいきたいと、私が日頃いっておるような事を、そのようなふうに書いております。その和賀心学というところで、大体話が終わっておるようです。
 そして質疑応答があるだろうと、そればってんか、こげな時はどうかの、あげな時はどうかのと、質問された時には、こういう質問を受けた時にはどう答かたらよいかといったような事を、昨日私にいろいろ質問致しますから、その事を話合ったような事でございました。
 どうでしょうか、例えばそんなら、皆さんがです、合楽は未信者に対してどのような程度、どのような布教方針、いわゆる合楽の信心とはと尋ねられたら、今、若先生が原稿に書いたというそのくらいぐらいの事は説明出来なければいけないと思うのです。お互いもういやという程、今のお話は聞いたお話でしょうが。
 合楽の場合は未信者に対する特別のどういう事じゃない。御神縁を頂いた一人一人が、本当に助かる。しかも最後の願いは自然に成就されるという、それこそ信心辛抱していきよるうちに、もう本当に、神様の御働きといわなければおられないという程しにです、もうこのへんの自然の働きというのはね、何ともかんともいえん程しの素晴らしいおかげに成就していくという、体験を皆さんが持っておられるのですから、それこそ、切ってついだように、さあ願ったからもうこうなったと言ったようなものではなくて、いつの間にか自然におかげが成就していく事の素晴らしい事を、皆さんが体験なさって、その体験が、子に、孫に又は自分の周辺に広げられていっておるというのが、合楽のいわばおかげを受けておる姿だというふうに私は思うです。
 ですから、皆さんとしても、今私が申しましたような事を、自分の心の中にこのくらいの事ならいつでも説明が出来るくらいな、内容な持って頂きたいと思う。
 同時に自然に成就していく体験を日々の一つのリズムのようなものを、感じながら神様の働きをここに感じながら、生活をしていく生活がこれはもう合楽の信心だと言うてもよいくらい。
 私は今朝から、こういうようなお夢を頂いた。それは雑木林です、大して広くはないけれども、その雑木林が、ははあ誰かがこの近所に住んであるなあと思われるように、その人の住んでおるこれはお庭になっておるんだなと思うように、雑木林ですけれども、それは何ともいえん、掃除の行き届いたね、素晴らしいお庭なんです。
 雑木林を自然のいうなら野原を利用して作られた庭のようです。只こうちょっと坂のあるところには、普通の自然石が一段か二段、坂のように置いてあるだけであってもうほとんど人工というものが加えられてない。
 しかも木の葉一枚散らかってない程にきれいにお掃除が行き届いておる。それをこれは普通の箒じゃない。おそらくはあのほうき草というのがあるでしょう、小さいところまで、あれは塵が動くんですよ、あれではわきますと。
 ここは、あの箒草の箒で、お掃除をしよんなさるとばいなあと思うくらいに、掃除が行き届いておる。雨が降り、風が吹けば必ず木の葉は散るだろう。散るけれども、その後にはもうすぐお掃除がされておるように、もうすみ々までも、いうならば、掃除が廊下をふきこむと申しますが、ふきこんであるようにもうお掃除がしこんであるわけです。
 それで下駄箱やら靴やらじゃ入れられん、何か竹の皮の草履か何かんごたるとが置いてあって、それでないといかにゃ庭の中には入ってゆかれんというくらいにきれいにしてある。
 それが別にひとっも人工が加えられてない。石が置いてあったり、特別の立派な植木が置いてあるだけじゃない。只、植っておるのは雑木である。
 それでも何ともいえんたたずまいというものが感じられる。家は見えんけれども、ははあこれを庭にしておられるそこの家の主人という人は、もう素晴らしい自然主義者で、それ々成り行きを大事にしながらというような人が、ここの主人公だろうと思われる。思うておるお夢であった。
 私はゆうべ、やすませてもらう時に、ふっと悲しくなった事がある。それはあの私は毎月ここに、椛目の泰子の事を毎日お届けさせて頂くのです。そん時にあの人達親子三人のお届けをする時に、もう必ず、池尻泰子という事をかいて「あら、泰子はほんに死んどったらじゃったい。これは故の字を書かにゃいかんたい」と言うて、もう大体忘れるんです。
 私のお届け帳をだから見て頂くと、普通に池尻泰子と書いて、その上にだから小さく故という字を書き加えんならんくらいに、毎日々故、池尻泰子というその故、池尻泰子という事をですね、それがこの、ここ二、三日、故という字を初めから書くのです。もういうならば、わかりこんでしまったという感じ。
 もうやがて五十日祭、ははあ、いうならば、もうこの世でも生々しい縁というものが、段々薄くなっていきよるなあと、私がこう思うた。その思うたらね、あの涙が出る程しじゃないけれど、しみじみとした悲しさをふとこう感じた。
 ほんにあの人が亡くなる時には、朝いっぺん参ってきて、ですからそれでお届けがあった。すぐ勝美さんがお願いに来た。
 そして自分は学校に行きますから、愛子ちゃんにちょっとおってもらいたいから、愛子ちゃんを相談に来ましたとというくらい、そげな簡単な事じゃった。
 妹も勤めに出ろうと言い、勝美さんも勤めに出ろう、それで愛子に来てもらって、泰子の側におってもらいたいという願いが二度目のお参りでした。
 ですから、医者とか何とか思う暇もなかくらいじゃった。だから親戚の方達が見えてから、医者にもかけんなと言って責められたそうですけれどもです、そういう事をふっとこうやすませて頂く時に思うとったら、そういうようなお夢であった。
 本当にその自然に委ねるとか任せるとかという事は、このように素晴らしい事なんだ。庭ひとつでも人工を加えてこうというのでなくてです、もうその、雑木林ではあるけれども、それは何ともいえんたたずまい。いわゆる掃除が行き届いておって、下駄履きでも入れんというくらいに、きれいんに掃除が行き届いておる。
 そういうような事ではなかったのだろうかというふうに私は思う。私共信心を段々熱心にさせて頂くようになってお導きという事が言われますから、もう、とにかく私の行くところは、もう金光様の信者になったつのごたる気持ちで、もう行くところでは絶対金光様のお話をしたんです。
 そこでどうかかあると言うと、もう強引に引っ張って教会にお参りしました。ほうら又大坪さんの来らっしゃったけん、金光様の話を聞かにゃんけん早うみんなは集まらんかという家もありました。
 ほうら金光様の来らっしゃったぞというてから、立ち上がって、話聞かにゃんけんでもう逃げるという人もあった。
 そのくらいる私と縁が出来たのはもう金光様の信心を頂かんならんもんのように、確信してあった時代があった。
 電車に乗って横に座った人はもう御神縁が出来た人のごと思うて、もう何の端からか、信心話を横の人にする。
 汽車に乗るともう立ち上がってから信心話をさせて頂く。もうあの時分気違いだと人が言うたはずですよね。
 しかしキリスト教とか何とか、ああいう町の伝導をしておられる人達はやっぱ・・・・ そういう、やむにやまれんものがあったというて、そんなら今日は、ここで今日の六十二節から言うとです、それで人は大して助からなかったと。導くけれども、本当に信者になっていく人はもうごく稀も稀であったという事。
 けれども、そんならそういう事がです、決して無駄ではなかったと今、私はしみじみ思うております。自分がお話しても助からんから、自分がお話をしても参らっしゃらんから、そうじゃない。そういう私は信心がね、実際にはこの六十二節には求められておると思うです。
 それでいて、そんならは、結果に於ては、私が導いたからよい信者が出来たといったような事はないけれども、それがひとつの基礎になっ、そんなら今日の合楽といういうならば、わが身の上におかげ受けて後に人を助けてやれというような、働きが今合楽に生まれておるということなんであります。
 しかも願いの焦点というものを絶えず本当な事からより本当な事を求めながら、信心を進めて頂いて、成程、信心も手習いも同じこと、一段一段進んで行くのじゃという事になって、そして体得させて頂いたものは、今朝から私がお夢頂いたように、それこそ雑木林ではあるけれども、雑木という事は、様々な人間臭、プンプンするようて心を持ちながらという意味でもよいでしょう。そうい人達の集まりというてもよいでしょう。
 けれども私は、一人一人の上にです、清掃するという事、清まろうという事、改まっていこうということの教導です。もうそれこそ、木の葉一枚散らかってない程しにです、素晴らしいと若先生が昨日言っておるように、教導がなされていっておるわけであります。
 そしてそこにおかげとして現れておるのは、そういう願いが素晴らしくなってくれば、くる程、真実の願いになってくれるくる程、その光りに照り返されて、そのひかりに照らされて願いは自然に成就していっておるというのが、今の合楽の事ではなかろうか。
 未信者に対するところの布教というものは、どういうような手を打っておるか、どういう教導方針を持って、教導方針なぞとはさらさらない、只、私自身がより助かっていくという事以外にはない。
 自分の助かっておるその有難いというものを人へ伝えていく事によって、人も助かる。そんならこれは、私だけの事ではない。皆さんの場合であってもそう。
 自分の心が救われて、あれやら、これやらが自然の中に、それこそもう自然林とでも申しましょうか、雑木林ではあるけれども、それはふつう人間が技巧をこらして作って庭では味わう事の出来ない程しの素晴らしい、いうならば、庭が出来ていっておるいう感じ。これは昨日おとといでしたか、合楽食堂の中村さんが、先生今朝方からとても有難いお夢を頂いたと。そしたら先生まあの続きを頂いたと。おとといと昨日とお届けがあったんですよ。
 それで大体どのような事かと言うとか、神様からお夢の中にね、「合楽というところは御霊地だ」と頂いておられる。
 私共、御本部の事を御霊地、御霊地と申しますね。けれども、合楽という地はね、御霊地だと。しかもここには河童が沢山育ったという事を頂いた。
 河童という動物は、実際はいないもきでしょうけれども、非常に零徳をもっおるというものですね。河童の上のさらに水がたまっておりさえすれば、力はどかしこでん出る。千人力、片一方の足が水につかっとりゃ、もうそれこそ千人力、水から上がって、皿が干上がると弱いと言われております。
 皆さんは一人一人、いうなら河童のようなもんじゃないでしょうか。頭の中に、心の中にお恵みのおかげという実感がある限り、又合楽という御広前に足をつっこんでおるかぎり、それは素晴らしい働きを表していける確信を持たなければいけない。
 そして先日から、佐田さんが頂いておられるように合楽天国である、いわゆる河童天国である。お徳を受けた人達の天国である。そこにはね、信心の無いもの、未信者の人達が到底想像もすることの出来ない素晴らしい世界、いうなら、次元の違った世界がそこにあるのである。
 恵まれ続ける事の出来れる、それこそ自然の働きの素晴らしい事、毎日、毎日有難事じゃなあ、勿体ないことじゃなあというて暮らせる程しの世界がそこにある。そういう世界に住みたい。
 そしてまだそういう世界をしらない人達にです、自分の助かっていっておる、いわゆるわが身の上におかげを受けている事を、人に伝えてはじめのうちは、いくら伝えても伝えてもそれは助かるという事には、つながらないかもしれないけれども、伝えておる者の力にはなっておるという事を、私自身の信心から言えるのです。
 それが段々成就し、上達してです、人も助かるという程しのいうならば、現在の合楽のような状態になってくる。
 今日は六十二節からね、昨日若先生が、今度教師会でお話をするという話を聞いて頂いて、今日の御理解にさせて頂きます。
               どうぞ。